音楽史と日本史
公立はこだて未来大学 M2の能登です。(twitter: @Noto_Sans_JP)
2019年も、終わってしまいますね。寒くなると共にモチベーションが下がっていき、不承不承ながら修論を書いています。
それはさておき、振り返ると2019年は、クラシック音楽界隈が大きく動いた年となりました。直木賞&本屋大賞W受賞の恩田陸氏の作品『蜜蜂と遠雷』の映像化。作曲家、ピアニスト、指揮者として偉大な音楽家、André George Previn (1929年4月6日 - 2019年2月28年)の逝去。日本人若手音楽家の大躍進などなど、、、
日本人若手音楽家の大躍進が最もめでたい出来事だったのではないでしょうか。世界三大コンクールの一つであるチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門にて、藤田真央くんが第2位。1959年に小澤征爾さん、1989年に佐渡裕さんが優勝しているブザンソン国際指揮者コンクールにて沖澤のどかさんが優勝。若手音楽家の登竜門、ロン・ティボー・クレスパン国際音楽コンクール(ピアノ部門)で三浦健司さんが第1位、務川 慧悟さん第2位。また、2020年にはショパンコンクールの開催ということもあり、日本人若手音楽家のさらなる活躍が期待できそうです。
ということで、クラシック音楽を身近に感じてもらいたいという思いを込めながら
日本史と対応した西洋音楽史年表を作ります。
(FUN part2 Advent Calender 2019への投稿ですが、 情報技術は一切使いません)
導入
クラシック音楽というと遥か昔のイメージがある方も多いと思いますが、意外とそんなに昔ではありません。例えば、嘉門達夫の替え歌で有名な『トッカータとフーガニ短調』 (BWV565)の作曲家であるJ. S. Bachは1685年 (貞享2年 徳川将軍5代 徳川綱吉の時代) 生まれですし、交響曲第5番 op. 67『運命』で有名なL. v. Beethovenは1770年 (明和7年 徳川将軍8代 徳川吉宗の時代) 生まれの人物です。そう考えるとそんなに古い感じはしないのかな?と僕は思います。西洋の大作曲家と同じ時代を生きた日本の要人との関わりについて妄想するのも、面白いかもしれないなあと思い、この記事を書き始めました。(ただ、日本は1639年から1853年まで、鎖国を行っていたので、西洋の大作曲家と日本の要人との関係はほとんどないのですが、、)
こんな風に、西洋音楽史と日本の歴史を対応させつつ紹介させていただきます。
バロック時代
まず、『音楽の父』と称されるほど偉大な音楽家、J. S. Bachの生まれた時代バロック時代について紹介します。
バロック音楽とはヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称です。音楽史における区分としては、ルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置します。バロック (Barroco)という単語を日本語に訳すと「歪な真珠」という意味の単語です。17世紀の人々は、調和と均整の取れた美を追究する古い(16世紀的)芸術嗜好に対して、「人工的」で「表現過多」な文化的趣味を「出来そこない」かつ「悪趣味」という意味を込めて「歪な真珠」と呼んだのが始まりだとか。バロックという様式は音楽だけでなく、彫刻、絵画、文学、建築といった芸術領域に共通する総称です。
BachとHandel
そんなバロック時代の後期に誕生したのが、J. S. Bach (1685年(貞享2年) 3月31日 - 1750年7月28日)、Georg Friedrich Händel (1685年(貞享2年) 2月23日 - 1759年4月14日)である。それぞれについて詳しく書いてしまうと長くなり過ぎてしまうので詳しい経歴については割愛します。
2人が生まれたのはドイツ (旧神聖ローマ帝国)と共通していたが、2人の生涯は対照的でした。バッハが教会音楽家に徹しドイツにとどまったのに対して、ヘンデルはイタリアでオペラを学び、英国に帰化して音楽を大衆に広めています。現在では、彼らの功績を称賛して、バッハのことをのことは「音楽の父」、それに対してヘンデルのことは「音楽の母」と呼ばれています (音楽の母については、日本人が勝手に言っているだけであり、世界的な通称ではない。ちなみにヘンデル は男性)。ちなみに、バッハとヘンデル は2人共ジョン・テイラーという眼科医の手術の失敗により失明しています(のちに病状を悪化させバッハは1750年に死去)。
一方、日本では1685年といえば徳川綱吉が「生類憐みの令」を制定した年です。
古典派
18世紀の後半、バロック時代の音楽はバッハの死を持って終焉を迎え、古典派への過渡期を迎えます。この時代は、音楽家の地位や音楽家像が変化していきます。バロック時代までの音楽家の立場は、宮廷または教会に仕える一奉公人という立場であったのに対し、古典派音楽の時代では、単独リサイタルの開催を行うまでになります。
楽曲自体の変化という観点だと、古典派音楽の最大の功績はソナタ形式の開発だと思います。ソナタ形式というのは、基本的に提示部・展開部・再現部からなり、言葉の通りそれぞれの部分において、旋律が提示、展開、再現されます(楽式論については、青島広志氏による著書が簡潔でわかりやすいので、おすすめです)。このように、一つの旋律を変奏させる作曲手法が古典派音楽の時代には流行りました。ベートーヴェンは変奏の名手であり、33もの変奏からなる『ディアベリ変奏曲』という長大な作品を作曲しています。
古典派を代表する作曲家
そんな古典派音楽の時代を代表する作曲家といえば、Franz Joseph Haydn (1732年 - 1809年)、Wolfgang Amadeus Mozart (1756年 - 1791年)、Ludwig van Beethoven (1770年 - 1827年) の3名ではないでしょうか。
一番地味なのがハイドン。Franz Joseph Haydnは1732年 (享保17年 公事方御定書制定の10年前)にオーストリアにて誕生しました。なんと言っても、作った交響曲の多さが桁違いで全107曲もの交響曲を作曲しています。このことより、『交響曲の父』とも呼ばれています。バロックの時代とは違い、古典派音楽の作曲家は稼ぐ額も違います。ハイドンは1791~92年の1年間でロンドンで多くの演奏会を催し、今の日本円で1億円ほどの大金を手にしたそうです。
次に生まれたのがモーツァルト。Wolfgang Amadeus Mozartは1756年(宝暦6年) にオーストリアにて誕生しました。ヴァイオリニストの父である、レオポルト・モーツァルト(1719 - 1787)に連れられて、幼少の頃から演奏旅行ばかりしていました。35年という短い生涯のうちおおよそ10年もの間、演奏旅行に行っていたとも言われています。淡麗な楽曲の数々とは裏腹に、汚言症だったとかスケベだったとかイタズラ好きだったなんて言われています。モーツァルトの生涯について知りたい方は、『AMADEUS』という映画を観ることをお勧めします。モーツァルトの破天荒な人生、圧倒的な才能、奇妙な性癖がイタリア人作曲家サリエリの視点から描かれています。
最後にベートーヴェン。 Ludwig van Beethovenは1770年(明和7年) にドイツにて誕生しました。14才年上のモーツァルトが、7才でデビューし、神童ともてはやされていたことに対抗し、ベートーヴェン の父は7才のベートーヴェンを「6才」と偽って、デビューコンサートを開きました。その後、13歳にして宮廷楽団から給料が出て、14歳の頃には音楽の家庭教師もこなすなど、音楽家としての才能を発揮していきました。死に際しては、多くのファンが参列し、盛大な葬儀が執り行われていることから、民衆から愛される性格で、人気の高い人物であったことがうかがえます。特に有名な『交響曲第9番』は世界的に祝典や特別行事の際に演奏されることが多い曲だそうで、代表的にはベルリンの壁の崩壊 (1989年 (平成元年))時にレナード・バーンスタイン指揮により演奏されています。
日本において、1770年代- 1820年初頭といえば徳川将軍10代目徳川家治、11代目徳川家慶の時代です。日本における大きな出来事としては、享保の改革(1716 - 1745年)と寛政の改革(1787 - 1793年)と行った老中・田沼意次による田沼時代、大塩平八郎によるくらいでしょうか。
ロマン派音楽
1820年代から1900年代にかけての音楽のことはロマン派音楽と呼ばれています。ロマン派の「ロマン」はロマンティックにという意味合いよりか、古典派音楽にくらべて「大衆的」、「自由」な音楽という意味合いが強いです。この頃より、古典派音楽の形式ばった体系的な音楽から、個人主義的なものへと変化していきます。ロマン主義では、古典主義の「合理的」な考えは軽視されるようになり、「理想」、「感性」、「愛」などといった「個人の感情」を投影する様な曲が作曲されるようになりました。このような思想にともなって、ロマン派時代には多くの大作曲家が生まれました。
歴史的な背景でいえば、18世紀末といえば、フランス革命 (1789年)によって封建制度、絶対王政が崩壊した時代です。啓蒙思想の台頭に伴い、音楽も変化していったのではないでしょうか。
カントは『啓蒙とは何か』(1784)で次のように定義しています。
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
<カント/木田元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.10>
世界観的には大海賊時代に似ているような感じがします。
"受け継がれる意志"、"時代のうねり"、"人の夢"これらは止めることのできないものだ────人々が『自由』の答えを求める限りそれらは決して止まることはない
海賊王 ゴールド・ロジャー
<尾田栄一郎『ONE PIECE 12巻』2000 集英社 p.7>
このような思想の変化に伴い、音楽に対する2つの考え方が登場しました。音楽以外のものと音楽を結びつけようとする「標題音楽」と音楽そのものを表現しようとする「絶対音楽」です。
音楽外の想念や心象風景を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写した器楽曲のことをいう。(wikipedia)
歌詞を持たない音楽の中で、物語その他文学的な何ものか(標題)を音楽で表現しようとする音楽でなく、音楽そのものを表現しようとするような音楽のこと。(wikipedia)
標題音楽では、ロマン主義の「理想」、「感性」、「愛」などといった「個人の感情」を楽曲として表現しようという考え方が強いです。作曲者がタイトルを命名することによって、聴き手や演奏者に対して意図を正しく伝えられるという利点があります。バロック時代にも、クープランのクラヴサン曲のようにタイトルが付けられた楽曲が作曲されていますが、作曲者の要求にしたがって音楽を聴くという意味でタイトルを付けられるようになったのはこの頃からです。一方、絶対音楽はバロックや古典派の時代に作曲されていた楽曲を指し、標題音楽に対して作られた語です。
絶対音楽を確立したのも、標題音楽を始めたのもベートーヴェンであると言われます。実際、ベートーヴェンは絶対音楽的なソナタ形式や変奏曲というジャンルにおいて名手ですし、交響曲第9番4楽章『歓喜の歌』(いわゆる第九)において、初めて交響曲に合唱を付け、音楽だけでは表現できないものを表現しました。そんな、偉大なベートーヴェンの後継者争いの中心人物がワーグナーとブラームスでした(多くの文献では、お互いを乏めるようなことはしていなかったという見解が見られるが)。ワーグナーは標題音楽の中心人物、ブラームス は絶対音楽の中心人物であると見なされています。どちらも、ベートーヴェンの偉大さに傾倒していたが、尊敬の仕方が違いました。
ワーグナーは第九を完全に受け入れた上で「自分の目指す音楽は第九の延長上にある」と考えていた。行き着いた先が、「第九のさらなるパワーアップ」でした。そこで、ワーグナーは「交響曲+歌」の第九に「ストーリー」、「演技」、「舞台装置」等を盛り込むことで、パワーアップを目指しました。一方、ブラームスは古典主義的な形式美を尊重する傾向が強く、従来通りの形式で交響曲を作りあげています。着想から21年もの歳月をかけ作り上げた、『交響曲第1番』は時代を代表する指揮者のハンス・フォン・ビューローが「ベートーヴェンの交響曲第10番」と称するほどでした。
以下にざっと関連図を載せます。本当はもっと複雑ですが、、
今でも、ドイツ語において音楽を意味する語としてはまじめな音楽(Ernste Musik, E-Musik)と娯楽音楽(Unterhaltungsmusik, U-Musik)という分類があります。このように、ドイツ人の音楽に対する感性は、私たちの音楽に対する感性と全く異なるものなのかもしれません。
ピアノの歴史
ロマン派時代の音楽におけるもう一つの大きな出来事といえば、ピアノの発展ではないでしょうか。フランス革命(1789年)、産業革命(1760年~)に伴う思想の変化、工業の発展にともないブルジョアと呼ばれるお金持ちの市民階級が出現し、貴族社会の象徴でもあったピアノが大衆化しました。その結果、演奏会は貴族の屋敷で行われるサロンコンサートという形式から、ホール演奏という形式へと変化していきました。聴取形態が変わることによって、ピアノに求められることも変化します。
ピアノに求められる代表的な機能としては音域の拡大、打鍵速度の高速化があります。1700年代初頭に誕生したバルトロメオ・クリストフォリのピアノの鍵盤数は4オクターブ弾くことができる54鍵でした(49鍵という説もあり) 。ベートヴェンが活躍していた18世紀後半にはフランスのエラール社が開発したピアノが68鍵、19世紀後半になると、さらに音域が拡大し88鍵という現代と同じ鍵盤数を持つピアノが開発されました。このように、鍵盤数が増えることはさらなる音楽表現の要因となっていきました。また、打鍵速度を高速化させるために、ダブルエスケープメント機構と呼ばれる機構が開発されました。それまでは鍵盤を押すとハンマーが上がって弦を打ち、一番下に降りてから次の打鍵に備えるのが普通でしたが、レペティション機構の導入のおかげでハンマーが下まで完全に降りなくても次の打鍵の準備ができるようになりました。現在のピアノは機能上、1秒間に最大15回ほど連打することが可能です。
また、ホールで演奏されるようになり音量も求められるようになりました。18世紀末には、1000~2000人の人達に聴かせるためのホールもできたため、ピアノも音域の広がりとともに、ホールで聴くに耐える音量や音の伸びが要求されるようになった。弦はより高い張力で張られ、それを支えるフレームにも、頑丈な鉄骨が使われ始めました (1799年)。ちなみに、日本におけるピアノの歴史の始まりは1823年のことでした。シーボルト事件で有名なドイツ人医師、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって、ピアノが初めて日本 (山口県萩市)へと持ち込まれています。このピアノは今でも、山口県萩市の熊谷美術館に保管されています。
近代、現代音楽
ロマン派まではドイツ語圏を中心として発展していた西洋音楽ですが、19世紀末ごろからだんだんと音楽が多様化しました。具体的にはドイツ語圏、フランスおよびフランス語圏、イタリア、北欧と中欧・東欧、ロシア(ソ連)、イギリス、スペイン、アメリカと多くの国、言語圏において新しい音楽が発展していきました。近代音楽について僕は全く明るくないので書けることがありません。なので、同時期の作品をいくつか紹介しようと思います。
ドイツ語圏
Arnold Schönberg/ 浄められた夜 (1899)
シェーンベルクといえば、調性音楽を脱し無調に入り、十二音技法を創始したことで知られています。1874年にユダヤ人の靴屋の子として、ウィーンで生まれ8歳からヴァイオリン曲の作曲を始めた。当時のウィーンではブラームス 的な絶対音楽とワーグナー的な標題音楽がまだ対立していたが、シェーンベルクは両方を統合しようとする。代表作である『浄められた夜 』は標題音楽で、ドイツの詩人デーメルの詩を原作としている。男女の愛の物語で、ドラマチックにかかれているが、音の輪郭は曖昧であり、これまでの標題音楽とは異なり、無調音楽的な響きがします。
フランス
C. Saint-Saëns/ 動物の謝肉祭 (1886)
全14曲からなるこの組曲は、一曲一曲が短く、全体を通して演奏しても25分ほどしかかかりません。「序奏と獅子王の行進曲」 、「雌鶏と雄鶏」、「騾馬」、「亀」、「象」、「カンガルー」、「水族館」、「耳の長い登場人物」、「森の奥のカッコウ」、「大きな鳥籠」、「ピアニスト」、「化石」、「白鳥」、「終曲」と何ともクラシック音楽らしからぬタイトルが目立ちます。その曲々の中では、他人や民謡から拝借したメロディーを嘲笑するように引用しています。例えば、4曲めの「亀」という楽曲では、運動会の曲として馴染みのある『地獄のオルフェ』をわざとらしくゆっくりのテンポでしてみたり、と。内輪ネタとして作曲したサン=サーンスは、この組曲の楽譜の出版を禁止する、という命令を言い置いていました。しかし、彼の死後、この組曲は大人気となりサン=サーンスを代表する曲の一曲として知られるようになりました。
北欧圏
Carl Nielsen/ Symphony no. 2 The Four Temperaments, Op.16 (1901 - 1902)
ニールセンといえば交響曲4番「不滅」が一番有名ですが、個人的に一番わかりやすく、面白い作品は2番「4つの気質」だと思います。「4つの気質」という表題の発想はもともと、ニールセンが田舎の居酒屋にかかっていた絵を見て着想を得たものらしいです。その絵は4部から構成されており、人間の4つの気質、「激情的で怒りっぽく攻撃的な気質」、「感情の起伏が少なく、粘り強い気質」、「陰気で憂鬱な気質」、「感激しやすく、さめやすい気質」をそれぞれ描いていた。この分類は古代ギリシャのヒポクラテスなどによるものであり、西洋では血液型分析のように普通に用いられる分類らしいです。この絵と同じように、交響曲2番「4つの気質」は4楽章からなり、1楽章から順に「激情的で怒りっぽく攻撃的な気質」、「感情の起伏が少なく、粘り強い気質」、「陰気で憂鬱な気質」、「感激しやすく、さめやすい気質」を表現しています。
この交響曲2番が初演されたのは1902年、ニールセンが37歳の頃です。この際には、作曲者であるニールセン自ら指揮を振っています。デンマークの作曲家は、有名な人が少なく、僕の知っている作曲者ではこのニールセンが一番有名。有名ではないが、同じくデンマークの作曲家であるオーレ・シュミットやルドルフ・ニールセン、少しジャズよりだがヤコブ・ゲーゼの楽曲を聴いてみると共通する雰囲気(デンマークっぽさ?)を感じられるので、興味のある人は聴いていただきたいです。
ロシア
Rachmaninov: Piano Concerto No.3 in D minor (1909)
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の初演時の評価はその長さと技術的な困難さに留保をつけるものでした。この曲は当初は演奏するピアニストは多くなく、当作品を献呈されたヨゼフ・ホフマンも演奏することはなかったそうです。現在は、ピアノの進化、高度な演奏技術を持った演奏者の台頭によって、様々な解釈を加えて演奏されています。中でも、名盤と呼ばれている演奏に1つ目の動画、ヨゼフ・ホフマンの弟子であるShura CherkasskyとYuri Temirkanov、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏があります。僕の最もお気に入りの演奏の一つで、ピアノの圧倒的なテクニックの高さがうかがえる、多彩なみずみずしい響きが特徴です。2つ目の動画はラフマニノフ本人が演奏した音源です。1877年にエジソンが円柱型アナログレコードを開発した事によって、このように演奏を記号としてではなく、音として残すことが可能になりました。
おわりに
日本史と音楽史についてきちんと書くつもりが、日本史をあまり知らないのでたくさんのことを書けませんでした。間違いなどあれば、ご指摘いただけると幸いです。もし、音楽史に興味がわいたという方がいれば、西原稔氏、野平一郎氏、諸石幸生氏など、著名な音楽学者の方々の面白い書籍がたくさん出ているので、そちらを参考にすると良いと思います。
今後の活動としては、気が向いたら、情報技術を使って作曲家どうしの相関図を可視化したいなあと思っています。
参考サイトをまとめようと思っていました (気が向いたら整理します。)
音楽史について学ぶ https://jp.yamaha.com/services/music_pal/study/history/baroque/p6/index.html
月刊クラシック音楽探偵事務所: http://yoshim.cocolog-nifty.com/office/2008/06/post_7892.html
ロココのスカートをまくった男モーツァルト
Can any composer equal Bach? http://www.bbc.com/culture/story/20140917-can-any-composer-equal-bach
生類憐れみのれい https://ja.wikipedia.org/wiki/生類憐れみの令
モーツァルト時代のコンサートが秘めた意図, https://yomikyo.or.jp/pdf/book/orchestra-201503-02.pdf
ピアノのための楽式論 青島広志/著
モーツァルトをもっと身近に https://www.austria.info/jp/ヴォルフガング・アマデルス・モーツァルト(MC2019)
アマデウス https://www.amazon.co.jp/アマデウス-DVD-F・マーレイ・エイブラハム/dp/B00005HKXU
ベートーヴェンの天才・変人エピソード集 https://otomamire.com/beethoven-funny-episode/
ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫) (日本語) 文庫 – 1965/4/16 https://www.amazon.co.jp/
熊谷美術館公式ホームページhttp://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100060